火垂るの墓・フィクションの中のノンフィクション、作者の贖罪は更なる自責ループになった生きながらの無間

ーーー「昭和20年9月21日夜 僕は死んだ」ーーー

突拍子もなくですが。
9月21日にUPしたかったのが、かなりズレました(ノ_・、)
ブログテーマのコスメとは関係のない雑記ですので、興味の無い方は飛ばしてね(^-^)/
(伝えたいことを優先して、全く端折る気持ちなく書いたので軽快さとは縁遠く長いヨ。)

冒頭のセリフは、かの有名な野坂昭如原作の短編小説「火垂るの墓(1968年3月出版)」のアニメの冒頭で、いわゆる幽霊の清太が、まだ生きている自分を見つめながら語るセリフてす。
このセリフは、できたら関西弁のイントネーションで読んでください。

「火垂るの墓」は、小説として直木賞を受賞していますが、1988年の高畑勲監督のアニメ化で有名になりました。
タイトルを聞いただけで泣き出す人がいらっしゃる内容でもあります。

アニメについて調べていると、様々な方が様々な方向から深読み(深観賞かな?)されているようで、興味深い憶測や伝説的なものもあって面白かったのですが、私は著者ご本人が清太のモデルである点、だけどフィクションである点に興味を持ったため、
「野坂氏の消えぬ罪悪感からの贖罪であったはずの原作が、野坂氏にとっては更なる自責ループになった」
ことに焦点を当ててしまいました。

他、巷の考察からなるほど、と思った点と、余録として、自身馴染みある作品の舞台でもある地域(兵庫県西宮市満池谷)、高校時代の息子らのトンマな肝試しについて書きます。

これがサクマドロップ問題や視聴率低迷、反戦映画と決めつけた機関の圧力、子供に見せたくない意見などなどで放映されなくなったらしい云々問題は放置します。

写真は清太がこと切れたJR三ノ宮駅(当時は省線三ノ宮駅)の円柱です。
清太が寄りかかっていた時はレンガが張り巡らされていましたが、何度も補強、補修されて、2018年完成の耐震工事により、元より1.5倍近い太さになっているそうです。

※注・下記はちょこっと調べたことと私の勝手な感想や見解多々ですので、真偽云々ではありませんことをご了承ください。※

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清太は辛い3ヶ月を何度もリプレイしている

このお話は、原作もアニメも反戦ものではないです。
といって、お涙系のつもりもないようです。
原作自体は淡々としている方です。

アニメは、幽霊の清太からの本筋に入っていきます。
よくある「現在の主人公からの回想による本筋」ではなく、身だしなみからして「神戸空襲前の清太の幽霊からの本筋」。
清太が亡くなる円柱の描写、そして眠る節子を膝に戦災からとっくに復興した現代の神戸の夜景を見下ろすラストシーンから、アニメが公開された1988年頃に1945年の清太がまだ浮遊していることが分かります。

このことに気付いた巷では、清太は自分の人生最後の苦しい3ヶ月間を何度も何度もリプレイしているのではないかと考えられているようです。
清太にとっては、永遠の今。

ならばこれは永劫回帰(フリードリヒ・ニーチェ)かも知れません。
ある瞬間とまるで同じ瞬間を次々に永劫的に繰り返すことを確立するという思想です。
しかも「永遠の今日を肯定的に生きる」ではなく「清太の永遠の瞬間は絶望」です。

また、私には清太は仏教での八大地獄の最下層にある最も恐ろしい責め苦を受ける地獄である阿鼻(無間)地獄に居るのではないかとも感じ取れます。

最近たまたま、どうしてこのようなストーリーになったのかを考えてみたので、私の勝手な解釈を後に書いてみます。

本当のテーマは、人間は社会との関わりを持たずに生きてはいけないという教訓

清太と節子が何故死ななければならなかったのかを単純にいうと、意地悪なおばさんのせいだとか、突き詰めると戦争のせいだとかいうところに行き着くかも知れませんが、このお話の本当のテーマはそのような不幸な環境にはなく、
「人間は社会との関わりを持たずに生きていけない」
のように感じます。

一般、人間として成り立つには社会参加が不可欠で、そこにはコミュニティと相互扶助があります。
清太は通っていた学校も工場も焼けたからと言って行かず、厄介になっていた西宮市満池谷のおばさんにどれだけ言われても町内のバケツリレーにも参加しませんでした。

御影(三宮と西宮市の中間辺り)の生家で遭った空襲で節子を背負いながら、目の当たりに落ちては爆発する焼夷弾の中をかいくぐってきた清太からすると、バケツリレーなどなんの役にも立たないことが分かっていた背景からではないかとも思われはします。
当時、屋根に上ってバカバカしいくらいの長さの竹槍でB29を突き落とすという訓練もあったようですが、何度もB29を頭上に見た父が「無理もいいとこ、アホらしいことさせよったもんやで。」と言っていました。

どんな思いだったかは憶測に過ぎませんが、そんな清太は、いわば自ら社会から隔絶してしまい、結局、節子と二人だけの家庭を作りました。

心中物語

頼みの綱であった父の死を察知、そして悦子は亡くなり、清太は絶望します。

アニメの内容からすると、節子が虫の息になった時、清太は親が残した残りの3千円を銀行で下ろし、玉子雑炊の材料やスイカを農家で買います。
もはや「お金 < モノ」になっていた時代、節子に食べさせたかった玉子雑炊の材料やスイカが如何ほどの価格だったかは分からず、清太にどれほどの持ち金が残っていたかは不明で、特に終戦後はハイパーインフレもあってお金の価値が日々、下がってはいましたが、多分に1945年9月20日に発表された戦災孤児等保護対策要綱が清太の元にも手が伸びるまでは生きては居られたように思うのです。
(混乱の中で戦災孤児等保護対策が実効性に乏しかったとしても。)

また、物語上、御影の土地など父親の財産を受け取る手続きをしていれば、後は気概さえあれば誰かに頼ることなく一中から一高まで通って卒業し、社会人になって日本の復興に加わっていたでしょう。

宣伝イラストの一つに、野菜やお米を売った農家で譲ってもらった「破れ傘を挿す節子をおぶった清太」がありますが、これは「心中」を表現しているとも言われています。
元禄年間に成立した人形浄瑠璃では、「破れた傘の相合い傘は生きることが許されない男女」を表現しているそうで、「この世で遂げられない思いなら、あの世で遂げましょう」だそうです。

清太は救いがない気持ちの中、希望を喪失。
清太はもう生きる気力を失くしていた、生きたくなかった、節子の後追い心中しか考えなかった、ということでしょうか。

フィクションの中のノンフィクション

1967年に直木三十五賞を受賞した火垂るの墓は、作者自身をモデルにはしていますが、事実はほんの部分だけです。

野坂氏の生い立ち

野坂氏は清太とは違い、実際は養子として育ちました。
1930年、両親は野坂氏が産まれる直前に別居し、母親は野坂氏が生後2ヶ月の時に亡くなり、生後半年で神戸の実業家である張満谷家へ養子に出されました。

張満谷家には、野坂氏の後、1941年に妹が養子に入り、野坂氏は大変に可愛がったようですが、生後たったの10ヶ月で亡くなります。
生きていたら節子の年齢と被ります。

そして野坂氏 13才中学2年生、戦局も敗色あらわな1944年3月に、また生後2週目の妹が養子に入ってきました。

下の妹が来る13才までの野坂氏は甘やかされた一人っ子で、こらえ性がなくわがままに育ったそうです。

神戸大空襲

それまでも何度かあった空襲でしたが、1945年6月5日の神戸大空襲は酷く、神戸の街全体が壊滅しました。
野坂氏が住んでいた神戸市灘区も、まず250kgの焼夷弾攻撃、そして全ての空間に爆弾の落下音がしたそうです。

神戸大空襲については、息子が小学3年生の時の担任の先生がモロに受けており、参観日でリアルなお話しを伺うことができました。
先生は「火の雨の中を逃げ惑った」とおっしゃっていましたが、焼夷弾には姿勢を垂直に保つ目的でストリーマーと呼ばれる青く細長い布が取り付けられていて、上空での分離時に使用されている火薬により、この細長い布が火の帯のようになって一斉に降り注いだための印象だと思われます。

焼夷弾というものは、攻撃対象に着火させて焼き払う焼夷剤を装填した爆弾で、中に入っている燃料が燃焼することで対象物を火災に追い込むものゆえ、例えば屋根を突き破って天井裏で横倒しになり、そこで火を噴きます。
木と紙でできた日本家屋はひとたまりもありません。

焼夷弾は断面が六角形の長ささ約51センチ、直径約8センチの鋼鉄製の筒に高温で燃えるゼリー状のガソリンを入れた布袋を詰められており、前後2段計38本を束ねた状態でB29爆撃機から投下、そして上空約700メートルで分解し、散らばった無数の子爆弾が屋根を貫通して屋内で爆発。
火の付いた油が壁や床にへばりついて燃えるため、水をかけても消えません。
(これを踏まえると確かに清太のように体験してしまうと、バケツリレー訓練に参加する気にはなれませんね。)

逃げても逃げても、走る所全ては爆弾の音、炎、炎、火花。
もはや殺戮の修羅場。
お話を伺った先生は、何かあったら姉と摩耶山に逃げる約束をしていましたが、炎の中では山側も海側も分からなくなり、気がついたら海辺に居たので、炎がおさまってからようやく這うように摩耶山へ摩耶山と向かい、お姉さんと再会できた時は気が抜けて、泣きながら膝から崩れ落ちたそうです。

この時、野坂氏の養父は焼夷弾の直撃で五体四散、養母も祖母も亡くなったと長らく詐称していましたが、1973年発表の「アドリブ自叙伝」によると、養父は空襲で行方不明、養母は大怪我を負ったものの生きており、養祖母も健在だったそうです。

物語の中では14才の野坂氏と4才の節子、詐称時点では大阪の郊外に疎開していた2番目の1才の妹だけが生き残って焦土に放り出された格好です。

西宮市ニテコ池のほとり

野坂氏は疎開先に妹を迎えに行って、西宮市の満池谷にある遠い親戚の部屋を借ります。
(この時、養母と養祖母と共だったかどうかは調べ切れませんでしたが、義母は重体だったので病院に居たと思われます。)

そこは貯水池であるニテコ池のほとり。
(「ニテコ」というヘンな名前の由来として、室町時代に西宮神社の塀((国指定重要文化財指定の247mの大練塀))を造営する際に必要な土を大量に掘って得た後の放ったらかされた窪地に雨水が溜まり、池となったが、塀の造営時、この池から西宮神社まで「練ってこい」と声をかけながら運んだので、「ネッテコイ」が「ニテコ」に転訛した説あり。)

池から流れ出る小川には、無数の蛍が居て、これはアニメのままに捕まえては蚊帳の中に蛍を放して1935年にあった神戸沖の観艦式を思い出しては軍艦マーチを歌っていたそうです。
この観艦式の様子は、神戸で育った当時8才だった父に聞いていますが、お祭り騒ぎで大変に華やかだったそうです。
それを祝って六甲山の中腹に、夜は戦艦を型どった電飾が点ったそうで、野坂氏(清太)にとって、蛍は軍艦の電飾でした。

今も六甲山には毎晩、錨と神戸市章の電飾が点っていて、私がまだ大阪府に住んでいた幼い頃に神戸の親戚の家にに向かう際、父が運転する横で阪神高速から右手側に見える錨と「くまさん」の電飾を見つけては「神戸に着いた!」と思っていたほどに神戸市の象徴です。
(子供の時、神戸市章がくまさんに見えました。)

これは西暦1903年(明治36年)に明治天皇行幸の観艦式を記念して松を錨の形に植栽したことに始まったそうです。
余談ですが、この電飾は、神戸市のお祭りや記念などの特別な日にだけ、ブルーに変わります。
この電飾の付近に軍艦の電飾があったのでしょうか。

食欲は愛も優しさも置き去りに

野坂氏は、妹を足手まといに感じたことはほとんどなく、おむつの洗濯も苦にならず、赤ん坊を背負って、同じ中学生の集団のそばを歩くことにも恥ずかしさを感じず、機銃掃射のキナ臭い匂いの中では妹をしっかり胸に抱いて庇っていたそうで、妹を愛していたと自信を持っていたのですが、ただ食欲の前には、愛も優しさも失せていたと言っています。

本当の生活ではアニメのように七輪はないから、石をならべたカマドで炊きものをしていたそうです。
食べ盛りの14才なのに山から採ってきた薪を入れた水ばかりの粥しかなく、妹にも食べさせなければと考えつつ、妹の茶碗の底に沈んだ米粒を自分の茶碗に取って重湯だけを妹に与えるも、匙で妹の口に運ぶ時、熱いのをフゥフゥ吹いて冷ますつもりで自分がツルリと飲んでしまっていたそうです。

妹は日増しに痩せ細るので、お腹に悪いと知りながら慌てて脱脂大豆をフライパンで煎ったのなど与えると、そのままウンチに出て慌てたそうです。

また、それでも意識自体は妹に食べさせようという気持ちを抱えては居るので、道端の家庭菜園から盗んだトマトを持ち帰るのですが、道々つい自分の腹に入れてしまい、近所の人が妹にに水あめを箸に巻つけてくれれば奪って自分が舐める。
野坂氏は食物が眼の前にない時は妹を気遣うのですが、食物が目の前にあると飢餓に変じていたそうてす。

しかも、「あろうことか妹の太腿を眺めては美味しそうだと何度も思った。」とも白状しています。
野坂氏は自身の食欲に恐れていましたが、食べ盛りの14才がただただ聖人のように我慢できるわけもなく。

寝たと思い違いしていた脳震盪による気絶

また、妹は静かな赤ん坊だったのに、毎晩泣きつづけるようになります。
夜は20分ほど寝るとまた火のついたように泣き出し、部屋を借りている家の人に文句を言われました。
「うちの子供は、昼間、御国のために工場で働いているんですからね、なんとかして下さいよ。」
これはアニメでは厄介になっていた「おばさん」のセリフと同じですね。
言われるより前に、野坂氏自身も夜泣きには閉口します。

野坂氏は、妹が泣き出すと背負って表へ出ました。
空襲のせいか妹が喜ぶ蛍も居なくなったし、あれこれを悲しんだり憂えるゆとりすらないし、ただ歩きながらウトウトと居眠りするほどに眠く、野坂氏はついにたまらず大声で泣く恵子を殴ります。
はじめはお尻を殴ったけど、それでも泣き続けるので拳で頭を殴りました。
妹が頭を殴ると泣きやむことに味をしめて、野坂氏は殴りグセが付きました。

野坂氏は、いくら赤ん坊でも痛さが身にしみると泣きやむのかとずっと自分勝手に考えていましたが、かなりの後に全く違う話題での医師との会話でたまたま知ってしまいます。
「赤ん坊はすぐに軽い脳震盪を起こす。頭をどこかに打ちつけると、1分か2分ほど気を失うが、大人はそれを眠ったとみて気がつかないものだ。」

これを聞いた野坂氏は自分でも分かるくらいに青ざめ、この時から常に「妹の頭を殴ったという罪悪感」が心に引っ掛かるようになりました。

妹の死

そのうち妹は、ようやくできた一人歩きも逆戻りして這うのがやっとの状態となり、骨と皮になって顔つきも猿に似て来ます。
妹は、いくら取ってもすぐガーゼの肌着の縫い目にびっしり集る虱と共に生きていました。

そして戦局が更に悪化して(と思う)西宮にも居られなくなり、野坂氏は弱り切った妹と共に福井県春江町(坂井市)に疎開します。
(義母と義祖母については記述がなく分かりません。)

結局、終戦の一週間後、もう泣く力も食べる力もなく、ただうとうとと眠り続けた妹は、野坂氏が銭湯から帰って来ると亡くなっていました。

動かない、息をしてないと分かった時、タオルで体をくるんで医者に走り、何かぼんやり錯乱したような頭で、混みあう待合室で順番を待っていたら、看護婦さんに
「お嬢ちゃん、どこがお悪いの?」
と尋ねられ、
「死んじゃったんです。」
とボソッと答えると、周囲の人間がドヤドヤと囲んで妹の額に手を当てて
「あ、冷めたくなっとる。」「かわいそうに。」
と言っていたら医者があらわれ、その場で妹の胸に聴診器を当てて
「栄養不良やな、ようけあるねん。」と言ったそうです。

ようけあるねん(標準語で「たくさん居るよ。」)。
ようけあるねん。
考えてみてください。
自分の大切な人が亡くなって「ようけあるねん。」で片付けられたら?

※アニメの節子の本当の死因は「工場出荷の際の有害物資が混ざった雨が目に入っため、免疫力が低下したことによる」です。※

野坂氏は近くのお寺のお坊さんを頼んで形ばかり経をあげてもらい、戒名を頼むと「(本名)+童女」とだけ書かれたため、そのいかにも出鱈目な感じにはとうとう泣いたそうです。

妹の遺体は、燃えにくいからと着物を剥がれた骨と皮ばかりの身体が座棺の棺に納められ、周囲には触れると痛そうな大豆の枯枝が押し込まれ、田圃の真ん中の石の炉で木炭によって灰と化します。
この時、始めからから終りまで傍らに居たのは野坂氏一人で、骨は拾えないほどに細々に砕けてしまったので、灰の一撮みを古い胃腸薬の空缶に入れて持ち帰ったそうです。

贖罪は更なる自責に繋がった

野坂氏は「14歳の少年が、1才3ヵ月の赤ん坊を育てられなかったからといって、別に気に病むことはないし、妹は運が悪かったといえばそれまでだ」と考えようとはしていましたが、赤ん坊の食物を奪い、頭を殴った記憶は決して無くなりません。

「火垂るの墓」の執筆は、妹への贖罪でした。

ところが、アニメ化に当たる際のインタビューでは、あの無頼漢な様相で
「結果的には贖罪にもならない。何度も脳震盪を起こさせ、餓死させた妹をネタにして小説にして儲け、更にアニメ化にするからますます儲ける。僕の卑劣な罪は消えないね。」
のようなことを話していました。

つまり野坂氏の罪悪感には、贖罪とした小説で更なる自責が重なりました。

アニメの清太が辛い3ヶ月をリプレイしている理由、野坂氏の自責ループ、私の勝手な解釈

アニメ化するに当たって野坂氏は、高畑勲監督に
「本当は原作ほど優しい兄ではなかった。あまりいいように描かないでくれ。」というようなことを言ったそうです。
野坂氏は、自分が飢餓に化したことと脳震盪を起こさせた罪悪感を抱えていたから、アニメでは原作よりきちんと罪悪感を加えて欲しかったのでしょうか。

果たして、アニメの中の清太は妹の節子にはひたすら優しく、いいお兄ちゃんでした。
節子には、です。

しかし、高畑勲監督が野坂氏の告白を受け止めたためなのか、清太はエエとこ育ちのボンボン気質、世間知らず、世渡り下手、社会的に孤立、絶望によって自死するというキャラクターでもありました。

そして、先に書いたように、清太は清太の最期の地獄の3ヶ月間を今尚、ひたすらリプレイしている阿鼻(無間)地獄に置かれていることを示唆するシーンが加えられています。
これこそが、いわば清太へのお仕置き、生きながら得たまま罪悪感から抜けなれない野坂氏の姿。

野坂氏は、後に
「タイムマシンがあったら、今あるお菓子をみんなかかえて、妹に食べさせてやりたい。6月5日の朝から8月22日の午後死ぬまで、ついにお腹をすかせっぱなしで死んでしまった女の子なんて、あまりにかわいそう過ぎる。ぼくは妹のことを考えると、どうにもならなくなってしまうのだ。」
と語っています。

私はこんな気持ちを抱えたまま、常に胸の奥でどうにもならず死ぬまで苛まれた罪悪感、これこそが、野坂氏の生きながらの阿鼻地獄、そしてそれこそが贖罪だったのだと感じます。

私は、清太が「同じところ」をリプレイしていることが、野坂氏の「自責ループ」と重なりました。

※野坂氏の見てくれは大酒飲みの無頼派で、数々のユニークな、または乱闘事件などのゴンタさんなエピソードが残されています。

けど。
私の非常に個人的で無知な意見としてですが、自覚有る無しは別として、ひょっとして若干の心的外傷後ストレス障害を抱えていたのではないかと感じます。
お坊っちゃん育ちの野坂氏がまだ14才の時に焼夷弾の中をかいくぐりながら目の前で人々が死んで行き、面倒を見ていた赤子の妹を亡くし、その原因を自分が耐えられなかった食欲や殴ったことに繋げていたら、いわば衝撃的なトラウマを抱えていたことになるからです。
元来お坊ちゃん育ちだった経緯による心根のおっとりさや、後の経験からの反骨精神で、弱い自分など認めたくもなく、内面のバランスを取るがための「普通とは違う異分子、ゴンタさん」だったように思えて仕方がありません。
(あくまでも個人的な感想です。)

※ソース随筆「プレイボーイの子守唄」『婦人公論』1967年3月号

※野坂氏は終戦後、義母、義祖母と大阪府守口市の親戚宅を頼り、後に上京。
ゴンタさんだったので少年院に入りましたが、連絡が入った実父に引き取られ、早大文学部仏文科に入学、して7年間も在籍。
1963年有名過ぎる有名な1963年「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞作詞賞受賞。
1967年「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞受賞。
2015年他界。
※読んでみてちょっと面白かったのでちなみに。
「アメリカひじき」とは、初めて見てアメリカのひじきだと勘違いした「紅茶の葉」でした。※

野坂氏が体験した空襲の爪痕はわりと身近にあります。
鉄橋の機銃掃射の跡。
厚い鉄なのに北から南に貫通していて、その威力が分かります。
もともとは錆びた白っぽい鉄橋でしたが、ビックリ。
いつの間にかブルーに塗られていました。

上の機銃掃射跡は、JR三ノ宮駅中央口からJR三ノ宮駅西口&阪急電車阪急三宮駅東口への2階通路の真横の鉄橋にあります。
大きな穴なのですぐに分かります。
この通路は昔から電車がうるさくてフェンスが汚くて鬱陶しいので苦手ですが、信号を渡らなくて済む利便さから、かなり利用しました。

有名な爆撃ポスター

私が、何年か前に「あれ?」と思ったのは、そもそもタイトルが「蛍」ではなく「火垂る」という点です。
当時は、原作自体、やたら装飾語が多く、主語から述語に至るまで、どこで誰がそうなのか、それなのか、微妙に分かりにくい文体であるため、タイトルも文芸的に装飾して「火垂る」としたのか?くらいに思っておきました。

劇中、清太は妹の節子を喜ばせようと、捕まえた蛍を住みかである防空壕内に放ちましたが、翌朝には全て死んでしまった蛍の残骸を土に埋めてお墓を作るシーンがあったので、そこに引っ掻けて「蛍の墓」を文芸的に古語である「火垂るの墓」にしたのかな?と勝手に思ったわけです。

また、両親を亡くした(海軍大尉の父親が亡くなったことは後に知るが)14歳の少年と4歳の幼児が終戦前後の混乱の中、無残な死に至る姿を描いた「蛍のように儚く消えた2つの命への鎮魂」であるだけに、単純に「火垂る」=「蛍」としか想像していませんでした。

が、後にツイッターで話題になったらしく、ポスターのイラストから、あれは「蛍の灯に包まれた兄妹」ではなく、米軍の爆撃機が落とす焼夷弾や爆弾が降る中の兄弟であり、実際、光の玉の上には爆撃機らしき黒い影があるそうなのです。
蛍にしては火の玉が大きく、涙型ですね。
よって、戦火の中の兄妹が描かれたということで、タイトルは「蛍」、そして「火が垂れる」ということのようです。
このイラストは、現在、「火垂るの墓記念碑」にもあります。

節子を荼毘に伏した丘

私は23才から27才まで神戸市に、27才からの2年間と阪神大震災の半年前に当たる34才から16年間(29才~34才は再び神戸市)、合計18年間「火垂るの墓」の舞台に当たる西宮の満池谷付近に住んでいました。
両親は23年間(他界したので母は14年間)住んでいました。

いつだったか、作中、清太が節子を荼毘に伏した、つまり亡骸を焼いた場所は満池谷から見た丘、それは息子が通っていた大社中学校が建っている場所に当たるという話しになりました。

小説の中では、満池谷の北にある丘の上で焼いたことになっていて、大社中学校が戦後まもなくの1947年に建設されているために「丘」というイメージはなくなっているのですが、校門からすぐに登り坂になり、校庭にも奇妙な段差があるので、「満池谷の北にある丘」は多分にこの中学校の位置です。

この中学校の近隣は住宅地であるのに、満池谷火葬場(満池谷墓地)があります、
ハイソな豪邸も並ぶこの住宅地のここに何故火葬場があるのか、火葬場が先なのか住宅が先なのか、不思議に思ったので、代々西宮に住む方に尋ねてみると、なんでもその火葬場がある場所は源平の合戦があり、合戦で亡くなった亡骸が沢山あったので、そのままそこで焼いたのを皮切りに火葬場になったとのこと。
よって、住宅街になったのはその後だそうです。
(裏付けは取っておらず、事実かどうかは分かりません。)

ニテコ池付近

清太と節子が隠れ家にしたニテコ池のほとり。
その西側には小高い丘がありますが、これは名次(なじ)山で、その北端にある名次神社は、今の西田公園にあったそうで、かつてはその際まで海だったそうなので、清太が節子を連れて海に入ったのはこの辺りでしょう。
当時は海がかなり近くてビックリです。
現実でも、野坂氏は赤ん坊の妹のアセモが治るかと、この海に連れて来ていますが、現在より近場だったのですね。

住宅地を造るために六甲山を削っては海を埋め立てたため、今は山から海までの距離ができました。
六甲山を見上げると、中腹まで住宅が建ち並びますが、上に行けば行くほどに勾配はきつく、「玄関を出た道路向かいは真ん前の10階建てのマンションの屋上」なんてこともザラです。
「神戸っ子あるある」に「山を描かせたら山の真ん中まで家屋だらけ」があります。
元風景を見たことがない人には「変な絵」と言われます。

車有りきの環境ゆえ、歩道がない道路も多々。
そして不便極まりない山頂ほどに、決して大袈裟ではなく、真実、美術館かお城のような邸宅が建ちます。
絶景のそこで
「庶民を見下ろしているんや。」と言うと、友人は「いや、ミクダシてんねん。」と言いました。
フッと鼻先から息が漏れました。

話が逸れまして。

名次神社の南隣は、かつて松下幸之助が最も好んだ名次庵、その南、ニテコ池の下段の池のほとりに大邸宅光雲荘を建てました(1939年完成)。
※後、光雲荘の建物は枚方へ移築されています。※
松下幸之助は豪奢な光雲庵より名次庵を愛したそうですが、いずれにせよ、外からは「この森、何?」と尋ねたほどに森でしかないくらいの邸宅です。
塀が長ーーーい。
息子が「番犬が3箇所に居る」と言っていました。

そんな富豪の大邸宅の場所のすぐ脇、下段の池のへりに横穴壕が1960年代か70年代まであったようです。
これが火垂るの墓の舞台です。
アニメでは、節子の亡骸を背負って横穴を後にした清太との対比として、終戦して疎開先から華やかな服装で戻ってきた邸宅のお嬢さんが描かれています。

野坂氏が西宮での空襲の度に実際に逃げ込んだ横穴壕は池の堤の南にありました。
「弱虫」「怖がり」「一生横穴に居ろ」とバカにされても尚、野坂氏は神戸大空襲の記憶の方が鮮烈過ぎて横穴に居る時が一番安心だったそうで、長いこと入り込んでいました。

野坂が住んでいた家は、ニテコ池の南、堤の下の一画だったそうで、そこが原作の親戚宅となっています。
蛍が居たのはニテコ池から流れる用水が南へ流れる小川だったようです。

ニテコ池の東を上がった北東角には西宮震災記念碑公園と越水浄水場、この浄水場の敷地は桜の名所。
その西隣が満池谷墓地です。
阪急電車甲陽線沿い。
奥の小高い一画はキリスト教のお墓が並びます。
墓地の東北隣の町は「六軒町」。

墓地の南口にいくつかのお地蔵さんがあります。
実際は出入口の至るところにあったかも?

そのような話をしていると、なんと、息子は高校生の時、「深夜に節子地蔵が増えていたら不吉なことが起こる肝試し」をしていたそう。
さすが高校生ならではのおバカ軍団です。

よくよく話を聞くと、それは
「節子をモデルにしたとまことしやかに伝えられているだけのブロンズ像」
なんですよ。
花崗岩の高い台座の上に1メートルほどの背の高さのオカッパ髪の女の子が、右手を上げて左手に手鞠を持ち、足元にウサギが居る像です。
右手を上げているので手を振っているように見えるとかで、「手振り地蔵」と呼ばれているとか?
いやいや、これはお地蔵さんではなくて像です。

この「節子ブロンズ像」は場所柄、節子地蔵になっただけで、実際は節子ではなく、通称「まりちゃん」。
1995年の震災で倒壊された後、もともとの場所から納骨堂側に移動しているそうです。
手鞠を追いかけて(ウサギを追いかけて、かも)交通事故で娘を亡くした両親が偲んで建立して、市に寄付したと言われていますが、裏付けはありません。
もし本当なら、手は「振っている」のではなく、娘を亡くしたご両親が「横断歩道では手を挙げて渡りましょう」という気持ちを込めたデザインでないかと私は思います。

このブロンズ像にはバリエーションに富んだいくつかの怪奇説があり、先の息子曰くの説、「目前のバス停に座って節子と目が合ったら家まで着いてくる」「雨の日は節子がマリをつきながら追いかけてくる」「深夜においでおいでと縦に振るところを見たら死ぬ」など。

いやいやいや、アンタらって!アホちゃうの?
あのブロンズ像は節子ではないし、そもそも節子は実在しない。
「自分をモデルにした原作者はその後長く生きてたし。節子は実際は1才で架空やし。」
息子に言うと
「あっ。ほんまや。節子って物語の中の人物やわ。呪いってなんやねん。」。
20年以上経ってやっと気付いたんだね。
いや、そもそも遊びでそんなことしたらアカン。

そして本物の「手振り地蔵」は、もともと「まりちゃんブロンズ像」があった納骨所(納骨堂ではない納骨所です)の近くに積み上げられた墓石や石仏の頂点にある2体の石仏のことです。
片方が手招きしているような形なので「手振り地蔵」と呼ばれていたらしく、似た場所なので混同されたみたいです。

完成な住宅街、墓地でありながら桜の季節は特に美しい風景です。
特に有名な夙川(しゅくがわ)沿いの「さくら道」でなくても、至るところが桜のトンネルになっています。
もし、機会がありたましたら散策してみてください。
ただし、坂注意。
山に向かえば向かうほどに急坂あり。

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