四方山話しpart2/かならぼFujikoの便利アイテム2種、へんな造りの気持ちエエブラシ、雑記・執着しない固執しない、つまびらかにして諦める

ーーー便利アイテムと気持ちエエブラシと(つまびらかにして諦める)雑記ーーー

2025年になってから、早くも2ヶ月以上が経ちました。
ええっ!
ずいぶんインターバルが開きながらのブログですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
1月半ばに、もう今年も24分の1以上が経過した、と話したら、
そんな考え方するんやー
って笑われましたが、こう考えると1年は短いという心構えができて、寝ぼけてる場合じゃないぞ、と。

今回は便利だと感じたガラクタアイテム3種類と、鬱陶しい雑記です。

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かならぼ Fjlloの便利アイテム

ノールックリップ

人がまばらな某ホームのバラドラにて
本線から別の線に乗り換えの際、タイミング悪くも電車が出たばかりで10分も待たねばならなくなった隙間に覗いて見つけました。

少し色付くリップクリームと同じといえば同じようなものだと思うも、「ノールック」というネーミングだけに釣られました。
「鏡を見ずに塗れる」なんて願ったり叶ったり。

色の展開は
「01キュンなローズ」「02キュンなピンク」「03キュンなベージュ」の3色だけで、まずは「02キュンなピンク」を買いましたが、発色自体は淡いです。
でも、淡いのにアガる発色は、今らしさを感じます。
というか、この年齢で「キュンな」て(゚∀゚;)
許せ
使うは自由だ。

使ってみたら確かにテキトーに塗っても、テラテラと「はみ出ました!」な感じはなく、でも塗ると塗らないでは違う
素唇より明らかにプルンと生気が宿ります。
実際はニベアのリッチケア&カラーリップの「スモーキーローズ」もしくは「フレンチピンク」と似通った感じではあるのだけど、それらより唇ラップ力があって、確実に持ちがよく、密着感もあります
でも、イヤな閉塞感はありません。

(同「ニュアンスラップティント」も買いましたが、普通のティントでした。)

正直、「赤ちゃんのような毛血感のある唇になる」という訴求に吊られて買ってしまったサンローランのラブシャインリップスティック44(ヌードラヴァリエール)の白っぽさを省いた感じが自然で、私は使いやすいです。

お直しパクト

次に見つけた逸品。
私は基本、出先で化粧直しはしません。
面倒だから。
触ったら余計に汚くなったりして、スッタモンダするくらいなら、ハゲていた方が楽。

面倒を顧みずに直したいとしたら、「目の下三角ゾーンと唇」かも。
目の下三角ゾーンは疲れが見えやすく、生気がない年配の唇は品がないわよん。
リップは先の「ノールックリップ」で簡単解決したとして。
「目の下三角ゾーン」をリタッチするとサッと顔色がアガって冴え冴えしますが、先に書いたように「触ると余計に汚くなって」、「結局下地から直すハメに陥る」から、できるだけ触らないんだよね。

そこで、名前ままに「直る」し、「簡単、綺麗」が叶うこの「お直しパクト」
メイクの上からいきなり(気になるならティッシュで押さえてから)付属の指1本しか通せないめっちゃ小さなシリコンパフで気になる部分をトントンすると、なんと。
長所がたくさん。

1・浮かない、密着
謳いままに「重ねても浮かない」し、「きちんと密着」してくれます。
2・簡単くすみ払拭
見た目も触り心地もヌメっとしたクリームファンデーションみたいな感じだけど、全然重たくなくてスルスル伸びて、しかも朝メイクが経時で剥げたり疲れで出てきた「夕方くすみ」を払ってくれます。
小鼻周りや毛穴もカバー。
3・厚みがない
重ね塗りの難点である厚みが出ない。
4・ナチュラルな肌ツヤ
重ね塗りしても肌ツヤを失わない。
5・嵩張らない
小さなコンパクトなのでお直しの際にチマチマするけど、持ち歩くには嵩張らない。

ということでお気に入りです。

乾燥しない理由は、リキッドタイプではなく、揮発する水分が少ないクリームのようなバームのようなタイプだからだと思います。
といっても油分ねっとりではないプラスチックみたい(え?)な練りものだから、まだ暑い時期にも使いましたが、汗にも皮脂にも強かったです。

だいたいコンシーラーもファンデーションも水分含有が多ければ多いほどに揮発による乾燥が起こり、しかしながら油分過多だと脂浮きするという問題が起こるので、このようなラスティング力ありで乾燥しない処方は貴重。

寒くなると空気が乾燥しているし、オイリー肌ではないので、パウダーでのお直しは肌表面乾燥の懸念ありゆえ。
このパクトは乾燥肌や年齢肌の方に、乾いた季節にも湿度の高い季節にもお勧めしたく。

Fujllo~どんな時もぬかりなく

私が疎過ぎて今まで知らなかったけど、「Fujiko」はすでに2016年発足の代表和田佳奈氏によるメーカー「かならぼ」のブランドの一つで、「クラスで一番イケてる子のイメージを考えて、日本っぽさもあるし呼びやすい」からの命名だそうです。

コンセプトは「どんな時も抜かりなく輝いている大人の女性」だそうで、それは確かに理想的なんだけど、なかなかに面倒で、ベースとリップ剥げ剥げなまま過ごしてしまうけど、フムフムそう在りたいものです。

どれだけ疲れていようが、絶対にスキや弱みを見せたくなくて背筋をキンキンに伸ばして早歩きするエエカッコしぃな私には有難いお供。

で、まだリップ系とお直しパクトしか使ったことがないけれど、「身軽手軽」「簡単に甦る」「簡単に生気が宿る」。
この2点は面倒なく「どんな時も抜かりなく」を叶えてくれます。
コンセプトを貫いたブランドである点、リスペクトさせていただきます。
多分にターゲットは若い女の子だと思うけど、実際はおばちゃんに親切な出来。
カワイイだけではない便利さに惹かれます。

気持ちいいブラシ・MAPEE フィンガーフレックスブラシ

連れとブラブラしていた時にベロンベロンした変な作りのオモチャみたいな安っぽいブラシを見つけ、抵抗はあるものの、ちょっと試してみたら頭皮が気持ち良きで、後ろに引っ張り上げながら梳くと、スカッとしてビックリ。
なんじゃこりゃ?と価格を見たら、オモチャな見てくれにそぐう1,100円と安価。
しかし、この価格でいて気持ち良さがスゴい
とりあえず買ってみました。

家でガッツリ使ってみたら、顔全体がキリッと引き上がる感覚で、もうヨダレものの気持ちよさ。
なんで?

写真では分かりにくいかもだけど
ワイドサイズの内側に少しカーブしたブラシは縦に裂いたみたいにバラバラになります。
どんな形の頭皮にも寄り添うのかも
私みたいな右半分斜め絶壁でも大丈夫。

細いピン自体、硬め。
ピン先が特に丸くないので、わりとキツめに当たります。
が、これが、きゃーってくらい痛い気がしたのは最初だけで、どんどん心地好くなります。
つまり、眠っていた頭皮が目覚めた感じ、硬くなっていた頭皮が和らいだような感じ
(頭皮マッサージを推奨しているし、専用オイルも作るくせにね、自分はズボラなもんで、ここ1年くらい忘れてたわ(・・;)

他に「梳っただけで髪がツヤツヤになるブラシ」とか、「頭皮によいブラシ」とか、いろいろ持っているけど(持っているだけの持ちぐされ)、どれよりスカッと気持ちがよいです。

で。
暴露すると私は若い頃からほとんど髪を梳かすという概念がないズボラです。
小さい頃は父の希望で髪を長く伸ばし、父が毎晩、豚毛のブラシで梳かしてくれていました。
これが私をブラッシングズボラにしたんじゃね?(こじつけ言い訳)
高校生の時に勝手にバッサリ切りました。
そして、ブラシも櫛も持ち歩いたことがなく、だいたい「手櫛」というズボラさ。
18才から数年は、10日に1回くらいの勢いで美容院で髪型を変えていました。
見た目は細くてか弱そうな髪ですが、実際は非常に強く、クリクリパーマとストレートパーマ、脱色を繰り返してもたいしたダメージがないまま、未だに丈夫で大きな変化はありません。

15才から半世紀、長さも様々でしたが、ロングの時だけは絡みやすいからさすがに毛先だけテキトーに梳いたけど、基本、今になっても手櫛大好き、バッグにブラシも櫛も入れたことがないというズボラさです。
が、そんな私がこの変なブラシは気持ち良すぎて、人生初、朝と洗髪前に必ず使っています。

お風呂で使うエトヴォスやUKAのケンザンタイプの頭皮ブラシはまるで続かなかったけど、これは続いています。

くだらない情報ですが、これはどうしても書きたかった逸品です。

執着しない固執しない、ギリまで頑張った後は自身の器量をつまびらかにして諦める、そんな酷い性分であることが書くことでつまびらかになった編

注・くだらないただの長い一人言です。

泰然とした軸ありの異色かもな自己否定感

こんなに長く生きているのに、一体、何をして来たのだろうか。
この年齢になると、ふいにそんなことを考えたりします。
ぞんざいな性格なので、いちいち一つ一つに後悔するような高尚さは持ち合わせないのですが。
後悔はしないけど、ぞんざいな性格を更にフル起動させて、自分を蔑んで済ませたかったりするわけで。
「自分はああしかできなかったんだろうな。あれ程度の器量なんだろうよ。」

だいたい表面がシャカシャカ伸び伸びハキハキしていて、そのくせアニメ声でオットリ話すらしいから(自分ではオトナ声で早口のつもり)、ピンと来る人は少ないかも知れないけど、自分の中に自己否定感が多くあります。
一般的な自己否定とは違うかも知れません。
自分の中に泰然とした軸があって意志は強いです。
また、何かと比較しての否定ではなく、自身の理想と比較しての否定です。
自分のこと、好きか嫌いかと問われたら、嫌いです。
特にどうにかしようとは思いません。
むしろ、自己肯定してしまったら、次はどこに向かえばいいのか分からなくなります。

でしょうね、諸行無常

さて、何をしてきたか。
この14年ほどは有り難くも極端な変化はありません。
有り難くも、というのは、外的な理由、もしくは自らの意志での変化に都度、対応してきた過去より、穏やかに平和だからです。
たいていの人がそうだと思うけど、面倒くさい波乱万丈は好まないから、変化がないのは非常に有り難いのです。

最初の極端な変化以来、胸の奥で「諸行無常、諸行無常」と唱えるクセが付き、心得るようになりました。
これは、どんな変化も小さなストレスだけで軽く受け入れていけるおまじないみたいなものです。
「だよねー。やっぱりねー。そんなもんだよねー。」って。

ちぇっ

ふだんの私を見て、ポジティブだと感じる人が多いけど、それも勘違いです。
常に最悪のシナリオを頭に描く人間をポジティブとはいわないと思います。
最悪のシナリオを基準にしていたら、実際、最悪が起きた時の心のクッションになります。
描いたより最悪だったら?ショックから数分後、「なるほど、そう来るか。かかって来なさい。」と構えるしかないです。

ただ、できたら泣き崩れて、救いを求めるだけでカタが付いていくお得な人間に生まれたかったなぁ、と思ったりもするのですが、そうはならなかった。
ちぇっ。

身近で勝っても全然嬉しくない、敵は自身だけ

でも、「かかって来なさい」といっても、別に戦ってはいません。
戦うのではなくて、サッサと現実を受け止めて(諦めて)構えるだけ。
だって、最悪の中で何が最善かを考えるしかないっしょー。
私は何につけ「戦い」みたいなものが凄く苦手で、例えばゲームもスポーツも全然勝つ気がなくて、先に降参した方が楽です。
理由は、誰かに勝っても嬉しくない欠落者だからです。
フルマラソン完走とかジェットスキーのV字ターンなどは単一スポーツで、自己を敵にするからできたのです。

相手が求めているであろう態度は現国試験の解答ほどに苦痛の茶番

で、
勝とうとしないし負けても悔しがらない私とは「つまらないから」誰も勝敗あるゲーム等はしたくなくないんだってwww
勝って喜んだり負けて悔しがる演技で皆の期待に応えなくていいから助かります。
この演技は、中学校の現国の試験で満点を取るべき時、解答用紙に「私の本音」ではなく、「出題者が求めているであろう解答を書く」に近い茶番ですもん。

ただ、人間が相手の勝敗には全く興味がなくても、自然の脅威やとてつもない不運が相手なら、なんとかくぐり抜けるしかないな、なのです。
何につけ、内心、「ダメでもまぁいいか」な気持ちがあるから、肩の力が抜けている可能性あり。
つまりは、見てくれだけ覇気があってポジティブなだけ。

創造が好き じゃない、創造されたものをベースにしてひねくり回すのが好き

そして。
何をしてきたか。
何かを中途半端に創造することは好きです。
中途半端というのは、「作り方」から創造する能力はなく、作り方のベースは既にあって、それを展開させたりひねくり回す、という意味です。

創造って、例えば、音楽の五線譜は紀元前に様々な方式を経て作られたし、ピタゴラスは鍛冶屋のハンマーの音から展開して音律を作ったし、純正律や平均律(細かいことを言うと平均律は最も一般的だが実は狂ってる)を作ってくれた者たちが居てこその今だし。
編み物もやはり紀元前からすでにその製法があり、沢山のテキストから学んだ上で展開させるわけで、料理に至っては200万年前を起源として沢山の人々による進化があっての今、やはり沢山の教えから身について、更なる極みへ向かっていくわけです。
人をスタイリングするのも好きだけど、結局は幼い頃からファッション誌や美しい生地やデザイン、そして洋画好きに囲まれていた上での展開であり、もともと私が創造したわけではない。
整理整頓の天才などと言われているけど、これも幼い時からの何かしら受け売りと実践が育んだ知でしかないです。

ということで、「創造」という言葉はおこがましくて使ったりできないのですが、とりあえず、何かを作ること、展開させることが好きです。

その形跡やブツには興味がない

ところが手元に「形」としてはほぼありません。
私は、どのようなものでも作る過程が好きなだけで、出来上がりへの愛着が非常に淡いのです。
実体がないから「何をしてきたか」とか思うのか?でもないと思うのですが。

図面から始めて時間をかけるだけかけて編んだ凝ったセーターでも、出来上がりを想像しながら編んでいる時が楽しいだけで、出来上がったものはどうでもいいです。
寒がりじゃないし厚着が嫌いだから、もし寒かったら迷わずハイゲージのカシミヤのセーターを選択するため、それより厚手の手編みセーターは着ることはなくて、場合によっては嵩張るからポイって。
たまたま家に来た友人や従姉が見たタイミングで欲しいと言ったら即、差し上げました。
出来上がったらバイバイして、更に面白いものを作りたくて、また編みはじめます。
結局、未だに自分的に不完全です。
不完全なまま、満足できないまま死んじゃうんだろうなぁ。

そういえば、9年くらい書き続けたホームページもしばらくは既成のブログに移行しながらも抱えていたけど、急遽の環境変えで、いとも簡単にパソコンを捨てたから、当時プロバイダーとの契約を切った感じでした。

後々ハードにデータは残っていたけどホームページの装丁自体が古いためのリニューアルにも気が向かず、ポイッと捨てました。

堆積した澱や背中に貼り付いた悪霊を捨てるような清々しさ、何につけモノには執着がない

編み物とかね、長年のホームページとかね、捨てるとスカッとするものなのよ。

どのみち私は人生で3回、持ち物をほとんど手離しています。
大地震の時、その14年後の引っ越し、その2年後の家出みたいな?時。
故意な断捨離ではなくて、環境上。
故意ではない時は、あー、私が集めた蓄積がーと悲しくもなるし、ヤケクソ気分大。
けど、
辿った道で堆積した澱を捨てる感覚。
背中に貼り付いた悪霊が剥がれる感覚。
清々しい。
これか?
同級生に
「過去を捨てる女」とフザけて言われる由縁は。

音に関しては、アレンジしようがコーディネートしようが、しょせん制約ありきの仕事なら燃焼なく、出来上がったらサヨナラして次へ次へと向かうわけなので、愛着もクソもありません。

石鹸にも、いわゆる実物に愛着はないです。
あるとしたら形ではなく、レシピだけど、だいたいは頭にあるので、データはボケた時用みたいなものです。
大切なお金を使ってくださった皆様にはちゃんと応えたいと思いながら、そのものや梱包法など、小さいながらの進化を試みながら居ますが、まだまだ自分に不満で、だからいろんな組み合わせや方法を試みます。
今、これがイチオシ!がそのままなんておかしい。
だって、停滞は退屈だから。

お料理も、食材選びから始まり、細やかな下処理から始めて、ソースに懲り、味付けに工夫を籠めても、作る過程が好きなだけで、定説通り、自分で作ったものは自分で食べても心から美味しい気持ちにはならないし、味見だけで充分です。
私にとって、料理なんてものは自分以外の者が美味しそうにしていたらそれが昇華です。
そんな事は1年に1度すらないけど一人だったら作らないし食べないです。
一人ならプロテインとバナナでエ~わ、なヤバいくらいのテキトーさ。
食事は味だけにあらず、共に楽しむ人あってこそ。一人で食べて何が旨いねん。
しかも、幼い頃からの習性で、昔から日を越えて作り置きしたものは全く食べたくない、食べられない性分で、一人分きっちり作れる才能はない。

その他諸々、どれもこれも愛着がない、そのモノに執着なく、その行為に依存なく。
全部なくなったら?多分、人生全般で見たら何もかもたいしたことではないな、まぁいいか、って。
悲観する暇があったら、また新しいことを楽しみはじめる。
何ができないか、より、何ができるか、にしか興味が向かないから。

一生、不完全宣告

執着がない理由の一つは簡単。
誰しもがそうではないかとも思うけど、どのようなものでも自作ものに対して実際は本気で完璧だと感じることはなく、いつも自分的に満足な頂点にはまだまだ遠いから。

多分、画家とか作曲家とか小説家とかも、時間制限や制約の中で、本気で自分的に完璧だ、とは思えないまま世に出しいたりして。
ショパンの曲に天才ショパンがそう思ったイメージはないけど、
「あ、チクショー、あそこはあと半拍、伸ばせばよかった!なんで転調しなかったんだ!こいつは僕にとっては不完全だ!」なんて思ってるかも?かも、な気がします。
川端康成もリリースしてから
「あー、ここの情景、なんか違うんだよな、今頃になって納得できる表現を思い付いたやん。こりゃ僕にとっては出来損ない。」
なんちゃってかも。
ミケランジェロだって、もしかのもしかしたら展示を眺めては「あの青色はもう少し錆びた感じが良かったな、くそっ。」って。
注・アホな妄想ごっこですw

とか思いながら、私はずっと不完全燃焼なまま生きて、結局、自分的頂点にはきっと辿り着かないから、まだしたいことが溢れていて、でも、だんだんなんでも面倒臭くなってるし、そのまま人生が終わりそう。

諦めるってつまびらかにすること、つまびらかにして諦める

ただ、便利なことに私はストイックでも努力家でもなくて、ギリギリまで自分を追い込んだ後は、どこかに「無理やんな」な時点があり、そこに来たら諦めることが得意。
「自分には出来る!」なんて肯定感がないからですね。

ちなみにネガティブな弱虫野郎の言葉でしかないイメージの「諦める」。
その語源は「明らむ」、つまり「つまびらかにする、明らかにする」なのです。
また、「諦」は仏教で「真理、道理」の意味があるそうで、「真理、道理を明らかにする過程で自分の願望が達成できそうにない理由をくっきり把握でき、ちゃんと納得してそれへの思いを断ち切る」。
素晴らしき達観www

諦めたらそこで試合終了は、手抜きして心にシコリを残すなよ、ってこと(と思う)

諦めたらそこで試合終了
は、
「そこんとこ、もっと頑張れるはずなのに手を抜いて諦める」のは、ずっと心のシコリになるよ、ってことだと思っています。
ちゃんとギリギリまで自分を追い込んで必死になって、クタクタになってから、ある時点で動けなくなってやっと、自分の中だけで自分と向き合って、
「自分の願望が達成しない理由を把握」、
そして「断ち切る」と、せいせいします。

こうして私は「つまびらか」にしながら
「自分の器量、そんなもん」
な自分にがっかりしつつ、ジタバタしながらまた年齢レベルだけ上がりました。
今年度、レベル65もジタバタいたします。

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